I killed my father

スカイ・クロラ観てきました。ネタばれますのでお気をつけて。たたみません。



どうやら押井ファンには好評で、森ファンには不評、みたい。
ワタシは小説を何度か気まぐれに寝る前に読む感じで。前にも書きましたけど、under worldのpearls girlが頭の中で鳴っていて、文章を読んでるというより頭の中でものすごいスピードで映像が流れてる。それが映像になったのは本当に素晴らしいと思った。
散香が飛んでいる。自分の頭の中の映像が目の前にある。感動。あのスピード。あの機体。ハイテクなんじゃなくて第二次世界大戦後のような風景。
パイロットたちが住んでいる部屋はもっと殺風景なものを想像してたけど、鳴り響く鉄板の入った靴音や重たい木製の扉が開く音。
(じゃあ目を閉じて見ていればいいのか?)



なのに、人物がぼんやりしていて、それが残念だった。線が弱い。わざとなのかな。扉と人物の比例とかデッサンとか歪んでるのは、リアルな空中をより際立たせたかったからなのか。一人称で静かに語られるクールな視線の文章はなかった。
子供だけれど、大人なんだ。キルドレなのだ。ちゃんと自我がある。(絶対的な忠誠心などはない)それがクローンだろうと、飛ぶことに唯一の生きている実感を感じる(たとえ感情が乏しくても)人、なんだ。それは周りの大人も理解してる。だから(気をつけて)と喫茶店のマスターの奥さんは言うのだ。
(なにに?)と聞き返すのは、空を飛ぶことが生きている証拠だと彼らは知っているからだ。地上は雨のシーンが多い。



大人にならない子供の姿。空を飛ぶにはうってつけの。機内は狭い。誰もいない。届くだけの背と、腕と足があればいい。
右手が誰かを殺すのは自分のGを感じるからだ。それが見たかったのに。私はそれが感じたかったのに。
ティーチャーとの対決ももっと見たかった。限界点を。Gを。ラインを。自分の重みを。生を。死を。空なら出来る。
撃てないのは恋愛感情なんて陳腐なものじゃなくていい。そこが地上だからだ。地面の重みを知ってるから地上で撃てないんだ。



と、私は理解してる。繰り返されるのは記憶の断片でもそれはどの道を選んでもけして同じじゃない。同じじゃないんだ。同じ空もない。


カンナミが空で死ねるのなら本望だろう。だいぶ小説とは違う話にはなってます。けど、空中戦は本当によかった。散香だった。
ティーチャーの非情なまでの戦いぶりも。




何故大人は忘れたふりをするんだろう。私も大人と呼ばれる年齢だけど。
10代の頃、真実を知っていた。周りの大人がどんなに愚かで生きてる価値がないと思っていただろう。
知らないふりするんだろう。でもそれを口で説明したり行動に移すと面倒だよね、社会では。
どうして娘が父親を殺したのか、本当にわからない?わからないふりをしてるんじゃない?仲が良いから信じられない?



きっとそんなことじゃないよね。仲が悪いとかじゃない。嫌いなわけでもないんだ。説明してしまうとばからしくなるようなことだ。アニマとかアニムスとかユングとかフロイトとか。行動に移してしまったんだよね。





エッジだ。夢に見るほどのラインだ。生きるための。成長するための。





繰り返される日常に殺されないために。





飛ぶ。大人になっても忘れないように。