インテリジェンスでもなければ、サイコキラーでもない。


ハンニバル・ライジング、観てきましたよ。ネタばれます。私個人の見解で、人格や道徳観を疑われるかもしれませんが、あくまで架空の人物に限って書いていることを念頭においてください。
私は(ハンニバル・レクター)という架空の人物にすごく思い入れがあるのです。原作も映画も、過去三部作全て読み、観ているのですが、今回の(ライジング)は読まずに観に行きまして。結論からいうと、ここまで作り上げた(ハンニバル・レクター)を何故ぶち壊すのかと。憤りを通り越して滑稽というか呆れております。
トマス・ハリスの、あの綿密なまでの小道具、時代設定、多岐にわたる知識欲を駆り立てる、あの世界はどこへ行ったのでしょう。レクターという男を通して、彼は(神に近い存在)を描いていたのではないのですか?
彼の(人を食べる)という行為は、彼の中での高尚な行為であり、彼の中で完結された道徳観なのではないでしょうか?(あくまでも小説の中の話です)
(復讐)など、陳腐な観念に思えて仕方ないのです。彼は、その人の先を読む、遙かな知識と予見と、自分にとってのプラス、マイナスによって動く、純粋な人間ではないんでしょうか?何故あそこまで(妹の復讐)に拘るのでしょう。わかりません。話のすじはわかります。
第二次世界大戦中、食糧難で、兵士に食べられる妹。トマス・ハリスはこの作品の全体を通して、戦争について暗に描いています。ドイツ、ソ連、フランス、日本の広島。
まるで彼が人類の人間のいさかいのなんたらを征服しようとしてる話にもっていきたいのかしら?と。

これまでのハンニバル博士というものは、確かに(七つの大罪)や(ダンテ)をもって、その通りに鮮やかに殺人を犯すのですが、こうなるようには思えない内容でした。非常に哲学的にも彼は優れていました。(セブン)のように、彼が罪を償わせようとも思えないし、シリアル・キラーでもない。狂人ではなく、かといって、罪の概念はない。
小説ハンニバルでは、クラリスに(フライパンをのぞきこんでみたまえ、クラリス。それは黒い深淵のようだ)と説くシーンがあって、(我々は炭素が複雑に進化した存在なのだよ)と、物質の存在意義を説くようなことまで言ってるのです。


それなのに涙を流して「愛している」とかありえないんですって。どうしたのこれは。ハンニバルではない。
前半まで笑いをこみあげてくるのをおさえるのが必死でしたよ。日本がオカルト趣味な国としか思えないし。剣道の摺り足も竹刀の振り方も、日本刀のつばさばきも、まるで礼拝堂ちっくにおかれた鎧兜もどうしたものか。(拘束のドローイング9)にしても、日本の節句や侘び寂びなど伝わらなくて当然なのですが、それにしたってひどすぎる。悪魔崇拝みたい。

妹の死と戦争がきっかけなのは話の筋としていいのですけど、彼の人格形成や、拘りのある調度品、小道具がまったく生きていません。古城に住む貴族の生活も上手く出ていないし・・・・・。彼の大学でも生活も美しくない。あんなに犯人のデッサンをベタベタ貼りませんって。分かりやすすぎる。途中、刑事を質問攻めにするシーンはよかったのに。彼の頭の良さで、もっと(どうしようもない、言い訳の出来ない愚鈍な大人)を追い詰めて欲しかった。残酷なまでに鮮やかに、子供のように楽しんで追い詰めればいいのに・・・・。トラウマよりも、そのトラウマを凌駕する人格形成を観たかった。


と、ないものねだりな感想になりましたが、ギャスパーが美形であろうとなかろうと、それはいいのですね。ギャスパーのせいではないような気がします。レディー・ムラサキもいらないよね。もう少し(母)のような存在になるかと思ったのにね。とにかく残念です。これ以上がっかりしたくないな。


ちょっと追記。まさか、レディ・ムラサキが紫式部の祖先だからって、(源氏物語)になぞらえて、超フェミ男に仕立てるつもりじゃないんだよね!?レクターが女子供にはとても優しい(食べるかもしれないですけども・・・)プラダの靴をそっと電話ボックスに置くようなフェミニストですけどー。でも光源氏のように女に依存してないものね。と、信じたい。本当によくわからない設定だ・・・。